詳細は省きますが目にしたことがあまりにも、と思ったので鬱になった人間から鬱目線で「し」について書きます
苦手な方、引っ張られやすい方は読まないようにお願いします
※大前提として人によって症状や感じ方が違うのですべての人に当てはまるわけではありません
あくまで一当事者として一つの視点です
そして特定の方の事情を決めつけるつもりの物では決してありません
特定の方を誹謗中傷するための物でもありません
ただの事情の一例として書いています
うつ病になって”しぬ”ってどういう感じか
恐らく多くの人が悲しみに耐えられなくてとうとう…という状況を思い浮かべると思う
実際に私も酷いときはその感覚が強くあったし割合で言うとその場合が多かったのかな…とは思う
だがそれがすべてではないという話を書いておきたい
鬱は「全快」がない病気で酷いときは周りから見ても何となく察するものがあるかもしれない
でも「寛解(なくなったわけではないが落ち着いている状態)」した後は本人としても殆ど変わりなく、しかし”鬱”が消えてなくなったわけではない
なのである日突然、周りから見たらあんなに元気だったのにどうして…ということが起きてしまう
この辺の心情について本当に個人的な感覚だが文字にしてみようと思いました
先に書いておくと、この文章は鬱患者本人へというより患者さんの周りの人へ見てほしくて書いた
もっとこうしておけば、自分が気付いていれば、とか色々思ってしまうとは思うけど全ての人が止められるわけではないんだよ…ということを知っててもらいたかったからです
感覚として全ての選択肢に「しぬこと」が入ってくる感じがある(希死念慮)
結論から言うとすべての元凶が”希死念慮”にあるのは間違いない
希死念慮というのはそのまま、「しにたいと思うこと」です
鬱になると「選択肢に”しぬ”が入ってくる」という話は聞いた事があるかもしれません
普通の人は大前提として生きていて、そのうえでどうするかを考えるのに選択肢にまず”しんじゃおっかな”が入ってきます
その言葉から想像するのは多分
「仕事で取り返しのつかない失敗をした...このまま頑張るか転職するかしぬかを選ぼう...」
「婚約者に浮気された...やり直すか別れるかしぬか...」
みたいなものだと思います
傷つく出来事があった時、選択肢に「しぬ」という文字が現れる、的な
もちろん原因があっての場合も多くありますが私の場合、それとは違う時が多くあった
私の感じていた物を言語化すると
「椅子から立ち上がりたくない...しぬか...」
「晩ごはんを作るか、風呂に入るか、しぬか」
「何を食べようかな...チャーハン?カップ麺?それともしぬ?」
「寝れないな...薬を飲むかゲームをするかしぬか仕事をやるか…」
という感じが近い
日常の本当に多くの選択肢にさも当たり前に「しぬ?」が入ってくる
もっと正しく言うなら「しぬか…?いやご飯食べるか」「しぬ…?いやお風呂入るか」みたいな…
行動の前に毎回Live or Die?が差し込まれるみたいな感じ
なので一日に何度も何十回何百回もこの「し」の選択肢を振り払ってやり過ごさなければならない
毎日何十回もやっているとごく稀に、たまたまなんとなくで「し」を選ぶ瞬間がある
選んでしまうという感覚もなく「うーんいつもチャーハンだしたまには”し”にするか〜」ぐらいの感覚で。
私は幸い(?)そこで「違うだろ何言ってんねん」と正気に戻れてるので今も生きているがいつか気付かずこの選択肢を行動にしそうな気がしている
全ての人がそうだとは思っていないが実際この選択肢のバグに気付かず動いてしまった人もいるんじゃないかと思っている
(それともこの感覚は私だけなんだろうか…)
しかし警部、これからしのうって人間が
最近よくネタとして
「しかし警部、これからしのうって人間が〜なんてするでしょうか?」っていうのがあるが...
あえてマジレスすると全然あるのだ
どんなに素敵な旅行の計画を建てていたとしても前日に「今日のお風呂どうする?しぬ?」と聞かれて「じゃあ今日はしぬにする」となれば全然ありえる
疲れてるとか落ち込んでるとか関係ない
「明日楽しみだな〜さてしぬか〜」が平気で成り立ってしまうのが鬱の怖い所なのだと思う
脳のバグと良く表現されるがまさにそうだと思う
ちなみに私の場合は幻聴でこの質問をされてるとかではない
(幻聴で聞こえてたら多分統合失調症とか別の病気の可能性が出てくる)
脳内会議にもならないぐらい自然な思考の流れで選択肢に上がって無意識に決定までしている
実際には「え〜どうしよう」なんて考える時間もなく、
「アッツ!(手を離す)」の反射ぐらい無意識に行われる選択なので自由が効きそうにない=そのうち無意識に”し”を選ぶ可能性がある、という話
反射はもう、自分ではコントロール出来ない
テンションの高さと”しなない”は違う
鬱の人はテンションが低く底辺まで落ちた時に”し”を選ぶと思う人が多いんじゃないだろうか
もちろんこれも大正解(嬉しくない)で個人的に1番ヤバかったのもテンションが底辺に落ちた時だったとは思うのだが必ずしもその場合だけではない
鬱とはいってもテンションには波がある
(波が酷いと躁鬱というまた別の病気になるが私はその判定はされなかった)
鬱全盛期の時の私はテンションが上がった時ですら「はー!今日は天気もいいしみんな幸せそうだからしぬかー!!」って感じだった
「自分鬱の割には結構頑張ってて偉いな〜! もういいか!しの!!」「よーし!しぬぞ~~!!!」みたいな...
…文字にすると怖すぎる ハイテンション紐なしバンジージャンプって感じ
結局テンションが上がろうが希死念慮の強度は変わらないのでこういう事になる
つまりあの人、鬱って言ってたのに意外と元気だったね、良かった。という場合にも裏でこう考えてる可能性も全然あるわけで…
ここまで読んでどう思ったでしょうか...
繰り返しになりますが一個人の症状の言語化であってすべての人に当てはまるものではありません
本当に色々な症状の出方と人それぞれの考え方があるので…
それで結局何が言いたいかと言うと、
こんなごちゃごちゃとした心情を周りから見ている健常者が正しく判断できるとは思えない、出来るわけがないということです
そもそも人の心なんて健常者だろうが鬱だろうが分かるわけないし、
そもそものそもそも”しの選択肢”に本人ですら気付いてなかったりするのに
「今私が声をかけなければこの人はしんでしまう!」なんて分かるわけがない
分からないのが当たり前で普通の事だと思う
そしてもう一つ大切な事で、
鬱は結局自分(の体)が戦わなければいけない病気です
周りの人がどんなに頑張っても、どんなに気に掛けて行動しても残念ながら病気が劇的に良くなることはありません
心の病気とかいうとややこしくなるけど
骨折で考えたら病院に行って励まされても結局治すのは自分の力、あとは時間ですよね
鬱は脳の病気です 脳の骨折みたいなもんです(?
優しい言葉を貰っても治らないし、薬飲んで数日で骨が繋がって完治なんてものでもありません
治るのには時間がかかるしその間は痛くても耐えて待つしかない
じゃあ言葉は無駄なのかと言ったら絶対にそんなことはない
痛みを和らげる力にはなります
でも言葉ですべての人が救えるわけではないということは覚えておいてほしい
だから「救えなかった」とあまりに重く自分を責めないでほしい
どんなに優しく声をかけたって本人の耳に届かないことが多くあって
どんだけ手を伸ばしたって本人まで届かないことがあって
周りにいた人はきっともっと出来たことがあったと後悔するだろうけど結局他人に出来ることには限度があると鬱当事者の私は思っています
例えその日まで気付かなかったとしても、悔やむ気持ちを否定する権利は誰にもない
今日までの自分の気持ちは自分が一番分かっているのだから自分の大好きな人を偲んであげて欲しい
そして一応鬱当事者の方へ、これが「病気」ということなので自覚のある人は病院にいって薬を貰おうね
ここまで文字が読めたのならきっと薬を飲んで休めばちゃんと回復に進めるから大丈夫だよ
夜寝れないだけでも睡眠導入剤は貰えるので気軽に行っちゃおうね
自分を助けられるのは自分だからね
ここまで読んでくれた方いたら本当にありがとうございました
文章ゴチャゴチャだったらごめんなさい
それではまた